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横山君 ありがとう!
2015.08.03 [ 井林院長MonthlyTale ]
150803 8月朝礼訓示 #1508
先週、7/24に8年間ガンと闘い、当院には最後の5年間勤務してくれた畏友 横山信彦 君が、まだ51歳という若さでこの世を去りました。先週末の日曜日(7/25)に開催された御葬儀では、キチンと纏めた形でのお別れの挨拶が出来なかったので、ここで故人を偲び感謝の意を込め改めて弔辞を文章に認めます。
6年前の某研究会懇親会で、九大教官以来久しぶりに横山君と再会し、その2年前から乳ガンで闘病中であること、北九州の病院を辞めてフリーターであることを伺い、その場で事情も考えずに「当院に来て回復期リハの経験値を教えて欲しい」旨 勧誘したのでした。程なく、病院の院内勉強会にも招待し、切れ味良く分かりやすい目から鱗のレクチュアを職員一同で拝聴しました。米国留学前の九大大学院の段階で既にNatureやScienceといった有名雑誌に論文が受理されていることなどその時初めて知り、頭脳明晰かつ物静かな口調ながら真面目で熱心な人柄に惹かれ、再度アタックしました。お家の諸事情を片付けたのち他から幾つもあった勧誘を断って、ちょうど5年前(2010年)の6月に当院に就職してくれたのでした。
赴任後は、Soft Bank Hawksの“熱男”よろしく、日々熱く厳しく多方面で活躍してくれ、職員と意見が打つかることもありましたが、6病棟のFLEX出勤回復期リハ病棟の立ち上げを皮切りに、脳卒中患者への漢方治療の導入、積極的経口摂取嚥下療法の試み(IOFIC; Intentional Oral Food Intake Challenge)等々、枚挙に暇ない程に有言実行の姿勢で 微温湯→熱湯 宛らに病棟の改革を推し進めてくれました。
赴任2年が経った頃から、心配していた胸の影が経過を追う毎に次第に増大、転移性肺病変が強く疑われ化学療法を定期的に受けながらの生活が再び始まりました。今思えば、時間が限られていることを自覚してのことだったのか、手綱を殆ど緩めることなくNPO法人「口から食べる幸せを守る会」の第2回大会長などを引き受け頑張っていました。この間、学会運営上でのストレスもあったのかも知れませんが、何とか学会を盛会裡に終えた頃から、咳嗽の悪化、熱発等がみられていました。鬱っぽく自暴自棄になり彼らしからぬ態度のこともありましたが、昨年(2014年)2月には米国San Diegoで開催された国際脳卒中会議に医局からIOFICの演題が受理され、発表した葉子先生を含め九大脳循環グループの後輩たちと楽しく会食したのでした。帰国直後から38℃の熱発と咳嗽が更に著明化し病院も休みがちになりましたが、老年医学会総会その地研究会での講演では、咳を堪えながらも期待通りの素晴らしい内容で発表をしてくれました。その後も全国各地から「摂食嚥下や漢方」の内容での講演依頼が増え、かえって負担を強いる結果になったかも知れませんが、去年7/31に入籍された奥様も連れ添っての全国行脚講演を続けていました。
昨年7月中旬から、いよいよ咳嗽や呼吸不全が悪化、元々かかりつけであったH病院に化学療法を受けるため休職して再入院(7/14)、その後在宅療養で合計8クールの化学療法を行いました。この治療は著効し、肺転移の症状は一旦治まったかに見えました。年が明けて今年3月の老年医学会九州地方会シンポジウムに主治医の許可を得て登壇し立派に発表 – ただこの時の質疑応答のやりとりに奥様は違和感を覚え、翌日撮ったCTで多発性の脳転移が発覚し、母教室の九大脳外科に入院のうえ全脳照射を受けたのでした。一時は小康を得たものの、運動失調等の出現により4/17にはE病院ホスピスに移り、手厚い奥様のお世話や医療職員の心身ケアを日々受けながら、多くの友人や合気道部の後輩などのお見舞いの中 穏やかに過ごしていました。亡くなる4日前には、予てから行きたがっていた由布院の玉の湯温泉にご夫妻で宿泊し、朝夕の料理も完食、無事に旅行を終えたそうです。ついに自力移動が困難になった後も、最後の最後まで口から食べ、そして自ら漢方治療を実践し便通のコントロールをしていたとのことでした。いよいよモルヒネの持続皮下注射と鎮静剤を使い始めた数時間後の 7/24夜半に眠るように鬼籍に入られました。結婚1周年の1週間前のことでした。
当に太く短い生涯と言わざるを得ませんが、今まで当院職員はじめ多くの人々に様々なことを教えて戴き、また多くの患者さんを救い元気にしてくれたことに対し、只々“感謝”の一言であります。台風12号と共に天国に旅立たれましたが、今後も我々を天上から厳しい目で確り見守って欲しいと願います。合掌